空手を通じて人格を陶冶し、真理と正義を愛すると共に、如何なる艱難困苦にも立ち向かう、強靭な身体と不抜の精神をもって国家社会に貢献する

武神道とは

武神五律

武神道とは・・・・

武神道=五心 【不滅の教義『武神五律』は永久の道標】

奉仕心= 武神会は、空手を通じて人格を陶冶し、真理と正義を愛すると共に、如何なる艱難困苦にも立ち向かう、強靭な身体と不抜な精神をもって国家社会に貢献するを旨とします。
修業心= 武神会は、『武神五律』を不滅の教義として心技体一如を求め、その奥義である、無極の位を目指して押忍の精神を噛み、無心の中より、事に臨み、機に応じ、応変の動作が発揮できうる修業に努めます。
和合心= 武神会では、苦難を友とした連帯感から、誇りある絆を紡ぎ、誉れ高き結束を固めます。また、一糸乱れぬ和合心をもって道友愛を育みます。
武神会の会章は『盟輪の符』≪輪(鉄の結束)を盟い符す≫を意味し、輪(和)の連環をもって、世界平和を希求します。
徳義心= 武神会では、空手という日本特有の精神文化を継承し、徳の香り漂う武人と気骨ある人材育成を目指して道を倣います。
また「徳義心なき者、礼を尽くし得ず」で、義を貫くことで徳を築き、徳を築くことで人格を建設します。
求道心= 武神会の求道心は完成への挑戦です。日本の美意識を学ぶことは審美眼を磨くことで、武の神技、神髄を摑むことは百千万倍身を動かすことです。
修業には本気の覚悟が求められ、本気の言霊は凛として心に沁み、覚悟の行動は厳として魂に響きます。

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武神道=道場砥石 【道場は自己研鑽の砥石】

 道場とは、一切の飾りと邪心を削ぎ落とし、一心不乱に自己と格闘する場です。また、道場では、身に寸鉄もおびず世の中の地位や名誉、肩書の全てを捨て去り、素の自己と向き合い無心になって十全な心技体を研ぐ場です。
 武神修業の第一義は「精神鍛錬」で、故に、艱難を選び、苦難渡る峻険道です。人生道はこの“難”との道づれで、難が胆を鍛え、肚を錬ります。
 率先難事にあたる気概が、道を開き、胆力のある自己をつくるのです。「胆」は「鍛」に通じ、鍛錬が剛胆を生みます。
 人は苦があるから楽が分かり、闇があるから光が見えるのです。“苦は楽の種”、“楽は苦の種”と言われる通りで、艱難、苦難こそが、己を磨く光輝の機なのです。
 武神会では、道場を自己研鑽の砥石として一切の余剰を削ぎ落とし、武神の“用の美”を目指します。

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武神道=啐啄同時 【機を得て師弟相応じるが啐啄同時】

 「啐」=呼ぶ叫ぶ意<雛が卵の中で殻を破ろうとする鳴き声=啐>
 「啄」=ついばむ意<その声で親鳥が外から殻をつつき壊す=啄>
 啐啄同時は、"啐"と"啄"の同時を得て、相応じる機を示します。相応じる師弟の“切磋”で
〝一を知り“、“琢磨”で〝一を覚る”のです。
 武神会での、武技の体得、武徳の会得も、師弟間の相応ずる機が成せる業で、命のふれ合い、魂のぶつかり合いを言います。殻を“撃”して向上し、己を“破”して完成に挑む修業道です。相応じる機を得て、未踏の地、有漏路から無漏路へと突き進みます。
 事全てに、「知識と行動」、「観念と体験」があり、この二道は表裏一体です。「行動に真あり起こさなければ観えず」で事理一致の訓えなのです。蝉は脱皮して始めて自在に空を飛ぶことができるのです。
 武神会では、道場生の出来さ加減、成長の度合いを見計らい、機を得て相応ずるを目指します。

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武神道=礼儀 【礼は“魂”の形】

 武神会は、「空手の達人に非ず、礼儀の名人足らん」を目指す修業道です。武道は「礼に始まり、礼に終わる」と言われますように、武の所作である「礼一つの中に日本が息づき」、「礼一つの中に人格が香り」、「礼一つの中に本物が漂う」のです。
 武神修業の道標は心技体一如で、その修業は精神鍛錬を第一義とする武の道です。精神修養の砥石は“艱難”、“苦難”で、自己を艱難が試練し、苦難が鍛錬するのです。
 先ず、その砥石上で研ぐものが、名人足らんを目指す”礼儀”、”態度”、”言葉遣い”の内面です。武神道は血気の勇を戒め、人格形成に努める道だからです。
 礼は、自他敬愛の念で、人と人とが摩擦を起こさないがための潤滑油です。礼の中に敬愛の念が吹けば一陣の清風が渡り、礼の中に人格が漂えば品位が香ります。
 この礼の行為追求の中にこそ、正義と至誠の心が養われ、真の勇気と堅忍不抜の押忍の精神が培われるのです。
 武神会では、教義である『武神五律』を座右に置き、武徳の遺産を守り、真の“もののふ”とならんがために礼をもって“魂”の形を整えます。

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武神道=態度 【態は“魂”の息吹】

 態の字義は、「心にわきまえた後、態度にあらわす」ということで、これは武神五律の「心ぞ観」「身体ぞ実践」に行き着きます。
 態度は、所作や作法に厳なる「節度」、“節”と“度”を結んで、始めて武人の凛とした美態となります。
 礼には「真・行・草」<45度・30度・15度>の角度があり、その角度は相手への敬意の深さで、この角度の深さこそが自分自身の人格なのです。
 人格は道徳です。道は(行為)で、徳は(人格)なのです。人は生まれながらに上下の差はありませんが、人格は修業の深浅によって高低の差が生じます。徳が高いということは、それだけ人望の篤さに繋がり大人として尊敬されるのです。
 礼儀も、態度も、言葉遣いも、全てが自身の内から離れることはありません。そのすべてが自らの人格だからです。

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武神道=言葉遣い 【言は“魂”の叫び】

 古代日本では、言葉に宿る神秘的な力を言霊と呼びました。
 言霊とは「真心から発せられる言葉」をいい、その言葉には千金の重みと、肺腑を衝く鋭さがあります。また、「寸言人を射る」という言葉の如く、多くを語らずして開花から結実までを指す深い言葉もあります。
 言葉は、相手との意思疎通を図り、情報伝達を行う英知の道具です。また、言葉は人間のみが駆使できる道具ですが、使い方で正義にもなれば暴力にもなります。
 相手へ掛ける一言が、夢や希望を紡ぎ生きる上での栄養剤ともなれば、逆に心無い一言が揉め事の火種となって争いの起爆剤ともなります。
 我が国が誇る日本語は、世界でも類をみない美しさと深い情緒を秘めており、それ故に世界一複雑で難しいと言われます。
 また、言葉といえば敬語の美しさが挙げられますが、その敬語はお互いを和ます魔力を発し、意思疎通をはかる最良の道具といえます。
 敬語は、相手が如何に上位の方であれ、“心を叩き”、“眼を開かせ”、“耳を傾けさせる”力を宿します。言は身の文と言われる所以です。
 「言葉上品なれば、態度品位あり」、「言葉乱暴なれば、態度粗暴なり」と、言態一致なのです。

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武神道=心の修養 【『心の修養』=『苦難の実戦』】

 汗は技体を研ぎ、涙は心を磨きます。
 心の修養は、武神修業の道標である心技体一如への要です。
 武神会が標榜するは武道で、日本特有の精神文化である空手道を究理し、大和魂と尚武心を修養します。
 その崇高な精神を養う修業こそが『苦難の実戦』で押忍の精神の具現化です。
 “我慢”、“辛抱”、“忍耐”を人間形成の土壌として、そこで育つ苦難を好き嫌いなく食べ尽くすことです。「苦難は=肥料=栄養=成長」と必ず自分を試練鍛練し、進化させてくれます。
 武神会が鍛え磨く「心・技・体」の三位の中で、至難の一位といえば、やはり心育です。それは誰もが自分が一番可愛いし大好きだからです。「こっちの水は甘いぞ」、「こっちの方が楽だぞ」と言われて、その方向に向かない者はいません。人は意識するしないに関わらず自己を甘やかし、保身に走るのが常だからです。
 苦難の実践は、必ずや先で汗の結晶となって光彩を放ち、崇高な精神となって開花します。

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武神道=技の錬磨 【『技の錬磨』=『一技の実践』

 武神道は、一技の実践をもって知る千変万化の道です。臨機の法、無碍自在の千変の術と万化の理の体得は、武神道の至上です。
 「一刀が万刀に化し、万刀は一刀に帰す」の如くで、一技が神技に通じるのです。
 また、空手は「基本に始まり、基本に終わる」と言われる如く、基本を繰り返すことで心は必然と錬られ、体は自然と鍛えられます。武神会は、技を通じて心を修養し、体を鍛錬する中で心技体一如を追求します。
 基本の上達法は、正しい技法に、正しい理論を習うことです。その事理を、道場を砥石として研磨研鑽に努めることこそが神技、神髄に達する近道なのです。
 武神空手は武道で、武技、武魂を体得する修業です。故に、一撃粉砕岩をも砕く技の破壊力は空手修業の核といえます。
 武神空手の極意は、無心の中に、機に応じ、変に処する、心技体をいいます。「自然の呼吸」を指すものです。
 一技の実践は、必ずや先で努力の昇華となって研ぎ澄まされ神妙の域を超えます。

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武神道=体の鍛錬 【『体の鍛錬』=『汗の実践』

 「体は汗が鍛え、心は涙が磨く」
 「火が鉄を鍛錬し、苦が人を試練する」
 この定石は古今変わることはありません。
 人の可能性は無限大で、若者のエネルギ-は無尽蔵です。それ故に、人は鍛えれば達人にも、名人にも到達します。故に、自信とは汗の実践がつくり出す達成感といえます。
 心技体を鍛え磨くに必須の条件は、強固な意志と惜しみない汗です。強固な意志は未熟な自己を変化させ、惜しみない汗は未完成な心技体を進化させます。
 「健全な精神は、健全な身体に宿る」の訓えの通り、健全な肉体をつくることは、取りも直さず健全な精神を形成することです。ただ肉体が頑強で腕力のみを誇示するのであれば、それは正義とはいえません。
 体の鍛錬は、必ずや先で鍛錬の功となって実を結び、強靭な体躯となって脱皮します。
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